「大正2年8月26日、集団宿泊的行事として生徒25名、青年会員9名、引率
教師3名(赤羽校長、他2名)の総勢37名で木曽駒ヶ岳登山に出発した。
計画は綿密に練られ、地元の飯田測候所にも逐一最新の気象状況を照会する
など、当時考えられる対策はほぼ全て取られていた。
当日、すぐれない天候の中ではあったが、山頂の伊那小屋で1泊する計画で
あったことから、予定通り山行を決行、途中から暴風雨になったが何とか
伊那小屋までたどり着いた。
ところが小屋は、心無い登山者の失火によって石垣のみの姿に変わっていた。
校長は、ハイマツ等をかき集め、全員の雨合羽を利用して仮小屋を設営した。
しかし、漏水で火を焚けず、弱っていた生徒が疲労凍死すると一行はパニック
に陥り、青年会員の若者が引率教師の指示に従わず、勝手に下山を開始した。
そのため、屋根代わりの雨合羽を失った仮小屋はその機能を果たせなくなり、
赤羽校長ら教師は、生徒をかばいながら下山せざるを得ない状況となった。
結果的に樹林帯にたどり着けた者は助かったが、稜線上で力尽きた者の多くが
生命を落とした。その中には生徒に自分の防寒シャツを与えて救おうとした
赤羽校長も含まれていた。総計11名の命が失われる大遭難事故となった。
上伊那郡教育会は、稜線上の遭難現場に『遭難記念碑』を設置し、『記念』の
言葉の中に、決して事故のことを忘れ得ないようにという思いを込めた。」
(ウィキペディア要約)